華麗なる海外逃亡記

1年半、41ヶ国にも及ぶ(現在進行形)、自分のバックパッカーとしての記録を記した雑記です。

第20話 宴会 ~長い沈没生活との別れ~

 モスタルへの日帰り旅行を終え、遂にボスニア・ヘルツェゴビナでの目的を全て果たした私は、最後の数日間を過ごすこととなった。まずは、オクタイ(サラエヴォ在住イラン人の友人)との約束を果たすため、サラエヴォにある日本食料理店に行くことになった。彼は、その日本食料理店がいい店だと言うので、私は気になっていたので、一緒に行こうということになっていたのだ。名前はズバリKimono。チープな日本庭園かのような見た目の店であり、内装は極めて少し和風テイストながらも中華料理屋と西洋のバーを合わせたかのような、いかにも海外の日本料理店といった場所であった。そして、店員の女性がメニューを運んでくる。この店員さん、西洋人がイメージする日本的服装をしており、それに合わせてなのか、髪型は阿佐ヶ谷姉妹もビックリの綺麗なおカッパであった。

 

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店員さんのイメージ図

 

 メニューを見ると、和食のほとんどが寿司か天ぷら。もちろん寿司というのも、ほとんどの場合カリフォルニアロールのような、おおよそ寿司とも認めたくない代物ばかりであった。これは、イタリア人がパスタにケチャップをぶち込むとキレるのと同じである。ちなみに、メニューについて更に詳細な事を記述すると、おおよそ日本食ではない日本食だけでなく、しまいにはパスタやチーズケーキなどが混在する始末で、もはや日本食レストランとは?といった感じであった。そんなこともありつつ、メニューの中では安く、ギリギリ和食として許容出来るものであったMaki(普通の鉄火巻とサーモンの巻寿司のこと)を注文。飲み物は、もちろん恋しい日本を思い出すため、緑茶を注文。これが間違いであったことを、この時の私は知る由もなかった。会話をしていると、しばらくして注文が到着。まずは緑茶で喉を潤すことに。そして、軽く緑茶を啜った私は驚いた。そう、この緑茶、日本の緑茶とは大きく味の異なる、インディアングリーンティーだったのだ。まさかのドバイのビリヤニレストランでの出来事の再来である。仮にも日本食レストランを名乗る以上、最低でも静岡あたりのお茶を置いていてほしかった。気を取り直して鉄火巻へ。うん、味は普通。ただし、さすがほとんど海がないボスニア・ヘルツェゴビナといったところだろうか。マグロやサーモンがほとんど入っておらず、ただの丸めた酢飯を海苔で巻いたものを醤油につけて食べただけというのが正直な感想だ。これ以来、海外の日本料理店を信用しなくなり、絶対に日本料理店には行かなくなった(2023年3月現在)。

 

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当時の巻寿司と緑茶

 

そうして店を出て、ショッピングモール前のジェラートを食べたところでオクタイとは別れた。うん、なかなか良い奴だったよ。

 次はムスタファ(3人のモロッコ人の1人)と合うことに。ムスタファとはまずカフェで合流。他のふたりはモロッコに行ってしまったと言っていた。その2人のうち、ザカリアから私に餞別の贈り物を受け取った。贈り物は3つ。1つ目は、ペルシャ絨毯柄の小物入れ。これは気に入っており、現在でもコインケースとして使用している。2つ目は数珠。これは部屋に飾っている。3つめは、なんとトラサルディの香水。Amazonで確認したところ、1万円近くする代物であった。ザカリアにはひたすら感謝である。

 

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当時のギフト達

 

そして、しばらくしてから、私とムスタファは少し離れた場所にあるクソデカモスクで大勢の人たちと礼拝をすることに。中東のでかいモスクでの礼拝を思わせる規模感に、私は圧倒された。そしてその後、ムスタファの友人と合流。オーストラリア出身の彼は、近くのステーキハウスでランチをご馳走してくれると言った。行きの車内にて、英訳のコーランをもらったのだが、彼の子どもに一部食い荒らされた形跡があった。いずれにせよ、ステーキハウスに到着。久しぶりのクソデカステーキに興奮を隠しきれない極東乞食。味の方は、正直言うと日本の牛肉の足元にも及んでいなかったのだが、非常に満足であった。人の金で食う焼肉と同様、人の金で食うステーキは美味いのである。そして食後、ムスタファとも別れを告げた。

 

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当時のステーキ

 

次に、衝撃的な出来事について描く。ある日、サラエヴォでは珍しいマクドナルドに座ってハンバーガーを食べていると、突然一人の女の子と中年女性が私の元に近寄ってきた。中年女性が口を開くと言った言葉が衝撃であった。「Do you have Instagram?」は?一瞬頭が真っ白になりながらも、インスタぐらいなら個人情報という程でもないし、いいかと思い、アカウントを教えた。すると2人はすぐさま退散。女の子に至っては一言も口を開かなかった。何だったのだろうと思いながらもマクドナルドを完食。近場の戦没者の墓場でお参りをしていた頃だ。インスタグラムに1件のメッセージ。送り主は先程の女の子。私の顔がタイプだったらしく、インスタグラムを聞いてきたのだが、シャイだったため話しかけられなかったとのこと。彼女はトゥズラという街から叔母と共にサラエヴォに来ていたとの事だった。その後、メッセージで軽くやり取りをしたものの、特に何があったわけではない。オチが面白くないと思ったやつは、今すぐ立ち去ってください。いや、やっぱり読んで。

 そしてボスニア・ヘルツェゴビナでの最後の夜、忙しいにもかかわらず、エディンが鍵を受け取るために、アパートまで来てくれた。彼は疲れ切っていたようで、到着するやいなや、秒速で寝落ち。私は次の日の早朝にモンテネグロのコトル行きのバスを予約していたため、早く夕食を済ませ、寝ようと思い、まずは最後の別れを告げに、サラエヴォで私が通いつめた、お気に入りのイタリアンレストランを訪れた。もう慣れきったものの、いつも通り美味しい格安ピザ。ひたすら感謝の念を込めながら完食し、最後の帰り道を帰っていた。すると、偶然先日のパーティーで会った2人に遭遇。彼らは、彼らの友人のホステルでのパーティーに向かう途中だったのだ。彼らは私を招待してくれた。到着すると、まだ誰もおらず、小さいホステルのバルコニーで目の前にある路面電車の線路を見下ろしながらコーラを飲んだ。しばらくすると、ぞろぞろと人が集まり、気がついた頃には10人ほどになっていた。本当に、バルカン半島のパーティーは、どこから人が湧いてくるのだろうか。人が一通り集まると、1人1曲セレクトして、街の中心にあるにもかかわらず、夜中に音楽を爆音で流すということになった。そういうのが嫌だったノリの悪い私は、自分の番になった瞬間、トイレと言って逃走。極めてさもしい男だ。また、音楽爆音では飽き足らず、ミラーボールまで出てくる始末。ミラーボールなんてなんで自宅で持ってるんだろう。ヴィレッジヴァンガードドン・キホーテでしか見たことがない。そして、爆音の音楽の中、2人の女性にダンスというものを教えられた。小学生時代、運動会のダンスですら無気力だった私に、ダンスを教えてきたのだ。うーむ、こういうヨーロピアンカルチャーには慣れる気がしない。そして、朝方になってようやく皆が帰ることに。私も、早く帰らねば、早朝のバスに間に合わないということで、帰宅することにした。サラエヴォ最後の夜にふさわしく、素晴らしい夜になった。帰宅途中、パーティーに参加していたフィンランド人の肥満ニキが、私にダンスを教えてくれた2人の女性に対してガッツリセクハラ地味たナンパをしていた。上手く流された彼は、教会の横で立ちションをし出すなど、極めて酔っぱっていた。あーいうのに絡まれる女性は大変であろう。皆と別れ、帰宅した私はすぐさま準備をし、最後の別れをするべく、パンイチで爆睡していたエディンを起こした。彼には本当にお世話になった。命の恩人である。そして、私は長く居座ったサラエヴォの街に別れを告げ、モンテネグロのコトル行きのバスに乗り込んだ。美しき中世都市で私を待っていたものとは.........

 

次回、伏見稲荷神社よりも厳しい要塞

 

                                                   to be continued........