華麗なる海外逃亡記

1年半、41ヶ国にも及ぶ(現在進行形)、自分のバックパッカーとしての記録を記した雑記です。

第15話 神秘 ~ボスニアでの様々な人との出会い~

 サラエヴォでの観光を一通り終えた私は、暇を持て余すはずであった。というのも、私は極めてせっかちなので、本来であればすぐさま次の街へ移るというのが私のすることなのであるが、当時の私には2つの行きたい街があった。ひとつが友人の住む街、トラヴニク。もうひとつが世界遺産の街、モスタルサラエヴォを拠点に日帰りでこのふたつの街に行くことを達成しないと、私はボスニア・ヘルツェゴビナを出られなかったのである。トラヴニクには、エディンが連れて行ってくれると言っていたのだが、肝心のエディンは多忙でなかなか会えない。ということで、まずはモスタルに行こうとするも、現金がない&クレジットカード残高圧倒的ピンチで、もはやクレカ利用制限リセット日まで生き抜けるかすら分からなかったのである。しかし幸いながら、エディンが私が好きなだけアパートに滞在することを許可してくれたため、私はサラエヴォの街で3週間の沈没をすることになった。これは、私が今まで行ってきた街の中で最も長い滞在期間であった(2022年12月31日現在)。沈没の期間中に行ったことは2つ。1つ目は、当時コロナウイルスの影響で1年延期されていたサッカーのEURO2020が開催されており、多くの試合を私はマケドニアの友人とオンラインで一緒に観戦していた。そしてもう1つはもちろんドバイと同じ戦法。そう、カウチサーフィンのハングアウトである。サラエヴォでは本当に様々な人に出会ったのであるが、その時のことを書き連ねることにする。まずは当時、サラエヴォに住んでいたモロッコ人3人組との話。彼らとは滞在中に何度もあったのだが、本当に親切な人達でした。まずは彼らを紹介する。1人目はムスタファ。サッカー選手で言うなら、サネに似ていた(絶妙に伝わりづらい例え)。彼の英語はダルそうに話すため、たまに何を言ってるのか分からなかった。日本人にもそういうタイプはいるが、やはり本人に悪気がない分つっこみづらい。2人目はユセフ。彼はサッカー選手で例えるなら、リカルド・ロドリゲスに似ていた(絶妙に伝わりづらい例えその2)。彼は後に色々な事を私に教えてくれた。3人目はザカリア。彼はサッカー選手で例えるなら、アザールに似ていた(絶妙に伝わりづらい........n回目)。彼は最後に素敵な贈り物を授けてくれた(また次回に詳細は記述する)。初めて会った時、私達はサラエヴォ旧市街のとある隠れ家的カフェで落ち合った。軽い挨拶を終え、エスプレッソを注文。今振り返ると、この時エスプレッソを注文した私は、まだまだバルカン半島ど素人であったように思う(理由は次回判明する)。そして様々なことについて話し、写真を撮るなどしたあと、街中にアザーンが鳴り響く時間になった。アザーンとは、礼拝の時間になるとモスクより流されるお知らせの放送のようなものである。すると彼らは私をモスクでの礼拝に招待した。ここまで嫌味のない宗教勧誘は初めてである。割と無神論者の私ではあるが、イスラムの文化に興味があることと、コーヒーを奢っていただいたことにより、札束で精神的に殴られていたため、断ることなく彼らに着いていくことに。イスラム教というものは、世間のイメージとは裏腹に、かなり来る者拒まずというか、極めてオープンでウェルカムな宗教、もしくはそういった信者が多い宗教であるので(もちろん地域と宗派にもよるとは思うが)、どう見てもイスラム教徒ではない極東乞食の私をモスク出会った人達はみな歓迎してくれた。彼らは私にサラマリコン(salaam alaykum)と言って歓迎してくれた。こんにちはということである。そうして彼らと挨拶を交わしているだけで、私はイスラムコミュニティに入り込んだように思え、旅をしていることを実感した。そう、彼らにとっての「日常」に「異邦人」である私が入り込むことで、私は「非日常」を感じていたのだ。そう思うと、やはりコミュニティに入りきれてはいなかったのかもしれない。いずれにせよ、まずはモスクに入る前に洗い場へ。神聖な場所であるモスクでの礼拝の前には、まず身体を清める必要がある。手や足だけでなく、顔や頭、耳や鼻の穴までも水で清めるのである。そして清め終えると、モスクのメインホールへ。前でお偉いさんが何やら怪しげな呪文を唱え(コーランのこと)、信者達がそれに合わせて様々なムーブメントをかまし、礼拝をする。ユセフが横でキメるムーブメントを横目で追い、それを真似る。私の初のイスラム式礼拝体験はそうしたものだった。そしてどこまでいっても発想が変な私は、メッカの方向に向けて土下座をするムーブメントを行う際に、神聖なことなど考えることもなく、ただただ利根川の焼き土下座を思い出していた。

 

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当時の私のイメージ図

 

礼拝が終わると、モロッコ人三人衆と共にモスクの各所で記念撮影を。私はモスクを神聖な場所と思っていたため(実際神聖ではあるのだが)、写真撮影に対して極めて高いハードルを感じていた。しかし、彼らはそんなことお構い無しに、大量の写真を撮り出した。これ以来、私はモスクを訪れる際に、リスペクトを持ちつつも、極めてカジュアルな気持ちで観光を進められるようになった。

 

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当時の礼拝の様子

 

その後、私達はバシュチャルシア広場にあるケバブショップに移動。ムスタファは乞食筆者に当然のようにドネルケバブを奢ってくれた。

 

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当時食べたドネルケバブ

 

その後、彼らとは何度もカフェに行ったりしたのだが、その時の話はまた次回。私がモロッコ人3人衆に連れられて、目にした一般人未体験ゾーンとは......

 

次回、圧倒的特殊体験

                                                      to be continued......

 

 

第14話 沈没 ~サラエヴォでの長い日々の始まり~

 ボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエヴォでの観光を始めた私は、まず宿の目の前にある川沿いをラテン橋まで歩くことにした。その日は天気も良く、初めてのヨーロッパの街並みの中、美しい川沿いを歩いた。サラエヴォは面白い街であり、ヨーロピアンな街並みのエリアと、オスマン帝国時代から続く、イスラム調のトルコ的街並みが入り交じっている。

 

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川沿いから撮った風景


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川沿いにある謎の施設

 

そして、しばらくヨーロピアンな街並みの中、川沿いを歩くと、ついにラテン橋に到着。ラテン橋とは、第一次世界大戦の発端となったサラエヴォ事件の舞台となった橋である。世界を巻き込む大戦争が始まるきっかけとなった場所なので、空気が重いのかと思えば、街の中心街の橋ということもあり、若者などが行き交う活気ある場所であった。そんな日常に溶け込んでいる様子から、意識をしなければ、全くもって事件を連想することはないのだが、それ故にある種のリアルさを感じた。というのも、日常に溶け込んでいる「その場所」がいつ戦場になってもおかしくないという「戦争のリアル」を感じたのである。もちろん、そんな事件を風化させないために、橋にはサラエヴォ事件に関する解説が書かれたものがある。また、そこで私は別の重大なことを感じた。それは、ドバイでは全く見かけることがなかった物乞いがいたのである。その老婦人は橋の上で物乞いを行っていた。そうだ、ドバイに行って忘れてたが、この世にある不条理、格差といったものは確かに存在するのである。

 

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ラテン橋

 

 ラテン橋からしばらく歩き、市街地の方向に向かうと、旧市街が見えてきた。そこは、トルコ風の街並みが残されているエリアで、いくつかのモスクがある。また、石畳が敷かれたそのエリアには、小さなお店が数多く軒を連ねており、ヨーロッパにいることを忘れるような街並みになっている(ヨーロッパを忘れるには早すぎたが)。そして、そんな中でも一際目を引くのは、サラエヴォ観光の目玉であるバシュチャルシア広場である。鳩の数が尋常ではないこの広場には、モスクや水飲み場、たくさんのお店など、これといって何があるわけではないが、色んなものが混在している。

 

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ひとつのモスク


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バシュチャルシア広場


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旧市街のお土産屋さん


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ふぜぇな店ども

 

そうしてトルコ風の街並みをしばらく歩くと、あるポイントから急にヨーロピアンな街並みになる。そのエリアに差し掛かると、大聖堂をはじめとしたオーストリア・ハンガリー帝国に強く影響された建物が増える。また、そのエリアの綺麗な公園には巨大なチェス盤(?)があり、御年寄達がチェス楽しんでいて、サラエヴォの過去からは想像出来ないほどの平和を強く感じる場所であった。

 

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トルコ風味とヨーロピアン風味の中間


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ヨーロピアン公園


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バカデカチェス盤(?)を楽しむご老人達


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大聖堂

 

 しばらく散策を終えると、初ヨーロッパでテンションが上がっていたこともあり、全く需要のないインスタライブを開始した。すると、後日会う予定だったボスニア・ヘルツェゴビナの友人(会いに行った時の話は後日挙げます)がライブを視聴してくれた。彼女は現在、トラヴニクという街の郊外の村に住んでいるのだが、学生時代にはサラエヴォに通っていたため、サラエヴォについて非常に詳しい。そこで私が、昼ごはんを食べられる場所を聞いた。すると彼女は、BBIセンターというショッピングモールを紹介してくれた。そう、彼女には私の当時の状況を伝えておいたのだ。当時の私は、現金を持っておらず、クレジットカード払いのみが可能な状況だったのだが、サラエヴォの旧市街にはクレジットカード決済が可能なレストランがほとんど無いのである。それ故に、基本的に割高なため、本来はショッピングモールでの食事は避けたいのだが、致し方なくショッピングモールで昼食をとることにした。メインストリートをひたすらあるくと、どデカくBBIの文字が。ショッピングモールに入るやいなや、すぐ右にカフェがあった。そしてそれがまさかの、そのショッピングモールで唯一の飲食店だったため、そこに入ることに。色んなものがあったのだが、私はフライドチキンをチョイス。味はジャンキーながらも、シンプルで非常に美味しかった。

 

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オーダーしたフライドチキン

 

サラエヴォの中心街は極めてコンパクトにまとまっている為、私はその日の目的を既に果たしており、その後はひたすら行く先もなくブラブラすることになった。すると、ふと自分がサラエヴォにいるということを自覚させられる建物に遭遇。サラエヴォという街は、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦時に、激戦地となったこともあり、30年以上経っていても街の至る所にはそれを感じさせるものがある。例えば、スナイパーストリートと呼ばれる場所は、出歩いた瞬間にスナイパーに撃ち殺される場所だったのだが、現在1部のタイルが赤い血の柄にされている。それは、まさにそこで誰かが殺されたということを示しているのだ。また、生々しい銃痕が残った建物も多くある。

 

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壁に銃痕が残ったアパート(現役)

 

 平和に感謝しつつ、街を徘徊していると、いつしか夜に。夜にはもう1人のボスニアの友人と合流することになっていたので、彼と街を徘徊。サラエヴォ在住の彼でさえ、特に知る人ぞ知るおすすめの場所があるわけでもなく、ひたすら会話を交わしながら同じ場所を何度も何度も歩いた。彼は夕食を旧市街にて奢ってくれたのだが、メニューは前日と同じくチェバピに飲むヨーグルト。私はそれが好きなので、飽きることなく食べられた。

 

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サラエヴォ中心街の劇場


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夜のバシュチャルシア広場


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戦争系モニュメントの永遠の炎

 

 夜も更けたので、私は彼と別れ、帰宅。しかし、そのアパートにも生々しい銃痕が。しかも、築100年以上のため、エレベーターがなく、最上階まで階段で上がらないといけないのだが、どこを押せば電気が着くのかが分からず、真っ暗な階段をひたすら登ることに。部屋についても、電気がなく、鍵を開けるのに苦労した。その辺のお化け屋敷よりもよっぽど雰囲気がある、なかなかのアクティビティであった。そうして、部屋に着くと、シャワーを浴び、私は床に就いた。次の日、私を待ち受けていた様々な人々とは.......

 

次回、ボスニアの宝=人々

                                                     to be continued......

第13話 衝撃 ~新たなる地での旅の始まり~

 ドバイのLCCであるフライドバイのフライトに搭乗した私は、離陸してすぐに面白い形の島を見つけた。綺麗な三日月形の島である。また、ドバイの上空からですらブルジュ・ハリファは見ることが出来た。

 

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三日月形の島

 

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フライドバイの機内食

 

しかし、そんな折にいきなりとある問題に行き当たった。ドバイの宿を出発する前に十分にスマートフォンを充電しきれていなかったのだが、私は慌ててはいなかった。というのも、飛行機内で充電をすればいいと考えていたからである。しかし、人生初のLCCに搭乗した私は衝撃を受けた。そう、機内にコンセントがないのである。また、私のスマートフォンは言うまでもなく極めて古いモノのため、バッテリーがダメになっていた。そのせいで、使っていなくても勝手に充電が減っていったのである。また、6時間ほど極めて狭いLCCの機内で満員の中、ひたすら座っているのは辛かった。ともあれ無事に空港に着くことが出来たのだが、そこでこの問題を解決する必要に迫られた。そういうのも、ドバイにいる間にサラエヴォにて私を泊めてくれるホストの方を見つけていたのである。名前はエディン。40歳ぐらいのボスニア人男性である。私は直ぐにエディンに会おうと思っていたのだが、充電がなく、SIMカードすらなかった。しかし、ドバイでス○ーバッ○スに救われまくった私が焦るわけがない。そう、私たちにはス○ーバッ○スがついているからである。まずは空港で入国審査を終えて、荷物をピックアップすると、私は空港カフェの辺りで1人の空港職員に話しかけた。「スターバックスってどこにある?」私は聞いた。すると、とんでもない返答が返ってきたのである。「ボスニア・ヘルツェゴビナスターバックスはない。」衝撃であった。途方に暮れることになった私は、何とかして歩いてエディンの家までたどり着こうと考えた。しかし距離にして15km。もちろん歩く距離ではないのである。私は空港職員に続けてスマートフォンを充電できる場所がないか尋ねた。すると彼は、私たちが立っていた場所のすぐ脇を指さして言った。「そこの使っていないアイスクリーム冷蔵庫の後ろにあるコンセントを使え。」空港のカフェの前の壁にあるコンセントで、乞食はスマートフォンを充電することになった。とりあえず30%溜まるまで、待つことにし、それまでひたすら待機。30%溜まると、次の問題であったSIMカード問題を解決することにした。SIMカードを買える場所を尋ねると、空港を出てすぐのところにあるキオスク(小さい屋台コンビニ的なもの)で買えると言われたので、私は空港そこで感じのいい肥満おばちゃんに案内を受けながら、クレジットカードでSIMカードを購入して、無事インターネットに接続することが出来た。私はもちろん、エディンに連絡し、その後自分で公共交通機関を使ってエディンの家まで向かおうとした。しかし、公共交通機関すら遠く、仮にたどりつけても、ボスニアの公共交通機関ではクレジットカード決済は通じない。仕方なく私は、非常に申し訳なかったのだが、エディンに車で迎えに来てもらえないかと頼んでみた。ボスニア編で今後、幾度となく描くことになるので先に述べておくと、エディンはホスピタリティレベル99の聖人なのである。それ故に、1時間以上もかけて私を車でピックアップしに来てくれたのである。私は感謝を述べつつ、乗車し、会話を始めた。たわいもない会話を続けていると、夕食時であったこともあり、エディンは私は彼がお気に入りのレストランに連れていってくれた。ボスニア飯第1号は、やはりというかなんというか、バルカン半島といえばこれ、という感じの料理、チェバプチッチ(通称チェバピ)と呼ばれるものであった。話には聞いていたので、いつか食べようと思っていたものの、いきなりこれをいただけるということで、私はテンションMAXでチェバピを注文した。出てきたものは非常にシンプル。肉の塊、みじん切りの玉ねぎ、薄いが内側が開いているふわふわのパン。たったそれだけなのだが、非常に美味しかったのである。好みでガーリッククリームチーズを添えたりして食べるのだが、それもまた絶品である。そして、飲み物なのだが、バルカン半島では、このチェバピには飲むヨーグルトを合わせるという伝統があったので、私もそうすることにした。これが非常にマッチして、これ以上ないコンビネーションであると感じた。

 

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ボスニア飯一発目のチェバピ

 

 チェバピを食べ終えると、私とエディンはエディンのアパートに向かった。到着すると、彼は一つの事実を私に伝えた。彼はサラエヴォから車で1時間半ほど走った街に彼の母と住んでおり、アパートは空き状態で所有しているらしいのだ。彼は多忙な人であったので、アパートに着くとスグに「明日の朝、仕事前に会おう」とだけ伝えて、スグに眠ってしまった。私も疲れていたので、スグに荷物を整理し、床に就いた。次の朝、深く眠る私を起こさずに、スグに出かけた。結局、彼と私が再会するのは、かなり後の話になった。

 

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長期間に渡って1人で使用したアパートの一室


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アパートの窓からの景色

 

彼は私に鍵を渡して去っていたので、私は次の朝、早速サラエヴォの街に繰り出すことにしたのである。幸い、このアパートはサラエヴォ中心街から徒歩10分ほどの素晴らしい立地にあったのだある。サラエヴォの街での観光を始めた私を待っていたものとは.......

 

次回、悲しき街の現在

                                                       to be continued.....

第12話 飛翔 ~さらばドバイ、次の地へ~

 

 実質的にドバイでの最終日を迎えた私は、まずは次の日のフライトに備えてPCR検査を受けに滞在していた場所にほど近いエミレーツモールというショッピングモールに行くことに。予約時に様々な登録などが必要だったのだが、そのせいで今でもたまにそのアドレスからアラビア語で謎のメールが届く。非常に迷惑である。そしてショッピングモールの地下にて無事にPCRを受け終わると、軽くショッピングモールを探索することに。相変わらずリッチという以外に感想は全くないのである。

 

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エミレーツモール内部その1


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エミレーツモール内部その2

 

  その後はずーっとボーッとしていたのだが(せっかくの最終日にもったいない)、夜になるとライドが私を色んな場所に連れていってくれた。まずは夕食のためにイエメン料理レストランへ。イエメンは2015年より内戦が続いている国で、今は行けない国であるだけでなく、元々多くの人が何のイメージも持っていない国なので、イエメン料理とはどういうものなのかが気になっていた。かくいう私もイエメンにはサナアの歴史的な街並みと酸味の効いたコーヒー、現在唯一観光で行けるソコトラ島のイメージしかない。そしてイエメン料理レストランでは、ビリヤニをオーダー。すると、謎のスープが添えられてきた。また、ビリヤニも少し違っていた。謎のスープはなんとも言えない色と風味であり、基本的には料理に含まれているスパイスなどを予想するのが得意な私でも全く検討もつかないものであった。ビリヤニには、ゆで卵とナッツ、フライドオニオンなどが添えられており、かなりスパイシーなもので、個人的には非常に好みのものだった。

 

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圧倒的に謎のスープ


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ちょっと変わったイエメンビリヤニ

 

 その後、圧倒的デブな私に気を使ってか、ライドは2件目に私を連れていってくれた。シンプルなチープ感溢れるピザ屋(圧倒的に失礼)。しかし、シンプルながらにチーズを存分に楽しめ、非常に美味しかった。また、タバスコをかけると、それはまた非常に美味しかった。

 

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チープピザ(食べかけ)

 

 さらにその後、ライドがデブなのか私が圧倒的デブなのか、デザートを食べに、ライドはアラブのデザートショップに連れていってくれた。アラブのスイーツとして有名なクナファやバクラバなどのスイーツを大量に注文。半分ずつ食べるのかと思ったのだが、ライドは少し食べてあとは私が食べていいとのこと。スイーツは別腹論者Lv.99の私はもちろん完食。感想としては、どのスイーツも油&糖分にまみれたもので、まともな日本人は食べ始めて直ぐにダウンするほどヘビーな味。もちろん美味しいのだが、いくつかのスイーツにはクリームチーズが挟まっていることもあり、とにかくヘビーである。しかし、リトル筆者は言っていた。「関係ない。行け」。その声に従い、私は完食するという圧倒的デブムーブメントをかましてやった。

 

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当時の心の中のリトル筆者

 

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油と糖分、時々チーズにまみれるアラブスイーツ


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カウンターはこんな感じ

 

 圧倒的腹ごしらえを終えた私とライド。ライドは私を車でどこかへ連れていく。私がどこに行くのかを尋ねても答えてくれなかった。リトル筆者は誘拐を疑ったが(居候を誘拐とか圧倒的謎)、彼はとある駐車場にて私を下車させた。少し歩くとわかった。そこはパームジュメイラのとある場所。夜になり、程よい気温になったドバイであるが、そんな中しばらく歩いていると、イルミネーションがなされた海岸沿いの遊歩道に入った。そこには外国人用の酒類を提供するバーや小さい噴水などがあり、さらに進むとそこにはライドの目的地が。そこにあったものとは、世界最大の噴水ショーがあるパーム・ファウンテンである。ライドはドバイ・ファウンテンの方が大きく感じるそうなのだが、パーム・ファウンテンがデータ上は世界最大らしい。しばらく待っているとショーがスタート。それはもちろん圧巻のショーだったのだが、私もライドと同じ感想を抱いた。恐らく遠近感のせいだろう。ドバイ・ファウンテンに比べるとパーム・ファウンテンは距離が少し遠いのである。

 

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遊歩道の小型噴水


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どうやらウェストビーチという場所らしい


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雰囲気のいい遊歩道

 

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パーム・ファウンテンのある場所


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遊歩道から見る対岸のドバイ

 

 次にライドは、お気に入りの散歩道に連れていってくれた。先程の遊歩道よりもくらいながらも、静かで落ち着いた海岸沿いの遊歩道。そこを歩いていくとそこにはアトランティス・ザ・パームが。

 

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間近で見る巨大なアトランティス・ザ・パーム

 

次にライドは私をパームジュメイラのビーチへ連れてきた。そうだ、私がドバイ滞在の序盤に来ようとしていたがたどり着けなかったビーチである。雰囲気が非常に良く、チャラついた音楽が流れ、シャレオツなバーが立ち並んでいた。そして私たちは車でパームジュメイラを出て最後の目的地に向かうことに。しかし、パームジュメイラとドバイ本土を繋ぐ海底トンネルで渋滞に。車内は空調が効いていたので良かったのだが、トンネル内の蒸し暑さのあまり、車には水滴が常に付着していた。やっとトンネルをぬけた私たちが向かったのは、世界最大の観覧車、ドバイ・アイのある場所である。そう、対岸にあるホステルから眺めた場所である。当時、ドバイ・アイは完成したてで、まだ一般客の受け入れをしていなかったのだが、下から見るだけでものすごい迫力であった。そしてその辺りには、海の上を歩ける歩道があった。ひたすらそこを歩き、綺麗な光景をただ楽しんだ。あのドバイ最後の夜を私は忘れないだろう。希望を言えば、ライドには悪いが、女の子と過ごせれば120点だったのだが、十分に100点ものの時間をもらった。ライドには感謝しかない。その後、ナイトドライブを終えた私達は帰宅し、床に就いた。次の日、私はメールにて無事陰性証明を受け取った。私はライドに感謝を述べ、別れを告げ、最後に日本での再会を約束した(数ヶ月後に実現)。ドバイ国際空港の第2ターミナルに行く必要があった私は、第2ターミナル行きの電車が無かったため、電車を使ってドバイ国際空港の第1ターミナルにまずは向かった。到着すると、第1ターミナルが。しかし、第1ターミナルに用はないためスルーして外へ。するとそこには、歩行者は入れない道があった。わけを聞くと、そこから第2ターミナルへ行くにはタクシーを使用するしかないとの事。巨大空港のせいで私は1500円ほどピンチのクレジットカードから払う羽目に。そう、ドバイのタクシーはクレカ対応なのである(日本ではタクシー乗らんから、日本がどうなのかは分からん)。第2ターミナルはエミレーツ航空が運営するLCC(格安航空)であるフライドバイ専用のターミナルなので、日本人が行くことはほとんどない。そのせいで、免税店や設備などは第1・第3ターミナルよりも圧倒的に劣るのである。ともあれ、チェックインを終えた私は、ドバイに別れを告げ、次なる地ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォに向かう飛行機に登場したのであった。新たな地、ボスニア・ヘルツェゴビナで私を待っていたものとは.......

 

次回、新章バルカン半島編開幕

                                                       to be continued......

 

第11話 夜景 ~世界最大のビルから望む都会~

 その日の私は、夜にブルジュ・ハリファへの登頂(大袈裟)とドバイ・ファウンテンでの水上ウォークを控えていたものの、日中にはジュメイラモスクという、ドバイで最も美しいと言われるモスクに行く以外に予定がなかった。そこで、昼まで寝てからジュメイラモスクに出向いた。到着した私は、敷地内を少し散策し、モスクの中へ入ろうとした。しかし、入口がよく分からなかったので、事務所のようなところに入ってみた。驚いたことに、この事務所のような場所の中は、さながら宮殿のような造りになっていたのである。そして従業員のような人を見かけたので、モスクに入りたいという旨を伝えた。すると、何故かその日は入れないと言われ、また入ろうと思うといくらかお金がかかるということを伝えられた。外観の美しさに満足しきっていた私は、特に中に入ろうともしなかった。また当時はモスクというものをほとんど見たことすらなかったため、中に入ることに対して敷居の高さを感じていたのだ。今では、モスクというのは極めてオープンな場所(1部除く)であり、いくら宗教施設とはいえ、マナーさえ守ればそこは異文化体験をする格好の場であることを知っている。後でジュメイラモスクに入れなかったことと、そこでお金がかかるということをライドに伝えると、宗教施設であるモスクで入場料を取るのは極めて愚行だと言っていた。

 

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ジュメイラモスク


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ジュメイラモスクの事務所みたいな場所


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事務所みたいな場所の内部その1


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事務所みたいな場所の内部その2

 

 予想外の短時間でジュメイラモスクをあとにした私は、その後、夜まで何をするかという問題に直面した。とりあえずドバイモールに行けば、何かがあるだろうと思い、ドバイモールまでバスで向かうことにした。しかし、いくらGoogleマップがあったとしても、私は市バスなどの短距離バスが非常に苦手なこともあり、誤ったバスに乗ってしまった。間違って着いた場所からは、ブルジュ・ハリファが思ったより近く見えたので、そこまで暇つぶしも兼ねて歩いてみることにした。この道中に不思議な建物を見つけたので、そこに入ってみることにした。そこは、エティハドミュージアムという場所で、アラブ首長国連邦の歴史、各首長国の歴史を学べる博物館であった。幸い、学生証を見せることでディスカウントを受けることが出来た。中には、各首長国の初代首長に関わる様々な品などが展示されていただけで、非常に面白くないミュージアムであった(オブラートがゼロ)。とはいえ、真夏のドバイにてエアコンが効きまくった場所をせっかく見つけたため、意味もなく長居してみた。乞食魂(帝京魂風)。

 

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エティハドミュージアム


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首長国の初代首長の持ち物の展示

 

 エティハドミュージアムでの休憩を終えた私は、徒歩でブルジュ・ハリファ、ドバイモールに向かうことにしたのだが、ブルジュ・ハリファは巨大すぎて近くに見えても、非常に遠くにあるということに気づいたので、バスで向かうことにした。ドバイモールに着いた私は、ひとつ面白いショップを見つけた。リヴァプールFC公式ショップである。そこでは、 歴代の名選手や現所属選手達のサイン入りユニフォームなどが多く飾られて(販売されて)いて、チェルサポの私でもテンションが上がった。

 

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ドバイモールのリヴァプール公式ショップ


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ユニフォームコーナー

 

そんなこんなで時間を潰していると、ブルジュ・ハリファ登頂(大袈裟)の時間になったので、私はドバイモールの地下にある入場口に行った。ブルジュ・ハリファ124階(5千円ちょいで行ける限界の階数)へのエレベーターに到着するまで、しばらく並ぶこととなり、しばらく並ぶと、エレベーターの前でデジタル写真撮影があった。あれは非常に謎である。遂にエレベーターに到着し、私はエレベーターに乗った。同じエレベーターには子ども連れの夫妻が。124階でも十分な高さなこともあり、エレベーターが上昇するにつれ、気圧で耳がやられる。子どもたちは耳を塞いで、口を大きく開けていた。子ども好きなな人が見れば悶絶物の光景だったのだろう(筆者は子どもが苦手)。エレベーターの中では、謎の演出が。エレベーターの中で謎のライトアップがなされ、謎のアラビアンな音楽が流れて、1分少々で124階へ到着。外に出ると、非常に美しいドバイの光景が。昼と夜の光景が見たかったので、夕方の日が傾きかけてきた時間に予約したため、最初はドバイ全体が明るい状態で見渡せた。それはそれで綺麗なのだが、もちろんメインは夜景です。そのフロアを一周するうちに、ドバイの様々な光景が楽しめる。ドバイモールやドバイ・ファウンテンの噴水ショーを上から眺めることも出来る。噴水ショーは下から見る方が綺麗ということに気づいたが、そこには触れないでおこう。圧倒的なネオンを見ていると、乞食な私でも、場酔いして、ブルジュ・ハリファの置物をショップにて買うことになってしまった。場に流されるのも考えものである。124階を終えると、ほぼ景色は変わらないのだが、125階の展望フロアに向かう。これらのフロアは階段で繋がっているのだが、これまた宮殿のような階段であり、リッチを感じざるを得なかった。あの瞬間は私は人生で最も乞食から離れられた瞬間だったのだろう。

 

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ブルジュ・ハリファ125階からの景色(昼バージョン)


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ブルジュ・ハリファ125階から望む夜景


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124階と125階を繋ぐリッチな階段

 

 素晴らしい光景を2時間ほど居座って楽しんだ後(長い)、私はエレベーターを降り、ドバイ・ファウンテンの水上ウォークに向かった。しかし、水上ウォークまでに少し時間があったため、夜のドバイ・オペラを軽く見物しに行き、ドバイモール内のフードコートで夕食をとることにした。そろそろ日本食が恋しくなっていた私が選んだのは、和食料理店。その名もUMAMI。さぞかし美味いのだろうと思い、楽しみにしながらメニューを見ると、ほとんど日本食らしい日本食が見当たらない始末。結果、日本食が恋しかったのにもかかわらず、私はステーキ丼を注文した。UMAMIという名前の時点で、旨みは保証されているはずのため、私は気にしなかったのである。そして、ステーキ丼を受け取った私は衝撃を受けた。そう、訳が分からないほど不味かったのである。謎の付け合せのキャベツなどが添えられたカスカスの肉。私は怒りのあまり半狂乱になりながらも完食し、気を取り直して水上ウォークへ向かった。

 

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美味くないのにUMAMI名乗る詐欺の証拠


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カスカス肉と謎の付け合せ丼

 

 水上ウォークと言っても、極めて近くの位置でドバイ・ファウンテンのショーを見られるというだけであるので、慣れもあったのか、そこまでの感動はなかった。そしてその後、何故か飽き足らずに、ショーを楽しむためのスポットとして有名なドバイモール前の橋からドバイ・ファウンテンのショーを楽しんだ。その位置が個人的にはベストスポットだと感じた。そしてその後、帰宅した私は、金銭問題から、帰国を急ぐ必要性に駆られ、次の目的地に向かうため、2日後にドバイ発のボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエヴォ行き航空券を予約し、私は床に就いた。ドバイでの最終日を迎えた私を待っていたものとは.....

 

次回、ドバイ編最終回

                                                    to be continued......

第10話 巨大 ~新たなる友人との出会い~

 ホステルでのチェックアウトを済ませた私は、その日からしばらく泊めてもらうことになっていたホストの家に到着した。彼の家はエミレーツモールという巨大ショッピングモール近くのマンションの9階の一室にあった。彼の名はライド。ヨルダン出身ながら、長らくドバイに住んでおり、UAEパスポートも持っている。また、大の親日家であり、日本へは4度ほど来ているとの事だった。後日談としては、先日、5度目の来日時に彼とは東京にて再開した。それだけあって、今でも連絡を取り合うほど彼との仲は良好である。軽く挨拶と自己紹介を交わすと、彼は私にその日のプランを尋ねた。私はドバイ・フレームに行くつもりだと言うと、彼は私を車で送ってくれた。ドバイ・フレームとは、ドバイにある世界で最も大きい額縁であり、ドバイのリッチさの権化の代表例の一つである。ドバイ・フレームに着いた私は、フレームの上まで登ろうとフレームの入口に向かったのだが、この頃はドバイでは万博が控えていたことから、その辺り一帯は万博1色に染まっていた。

 

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下から見たドバイ・フレーム


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万博に染まるドバイ

 

 フレームの中に入ると、そこはドバイの歴史(極めて浅い)を知ることが出来る博物館のようになっており、そこを通っていくとエレベーターがあり、上に行けるようになっている。ドバイ・フレームの上階からは、ドバイの街が一望でき、床には一部、透明なパネルもあるなど、高所恐怖症の人々は発狂しか出来ないような仕様になっていた(幸い私は高所恐怖症ではない)。カップルか家族連ればかりの中、1人で一通り楽しみ終えると、私はドバイ・フレームの下にある公園を探索することにした。そこでは、謎の巨大な惑星のモニュメントや、小型大阪城などがあった(ドバイと大阪が姉妹都市なため)。

 

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ドバイ・フレーム内部の歴史説明エリアその1


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ドバイ・フレーム内部の歴史説明エリアその2


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足元の透明パネル


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ドバイ・フレームから見るドバイ


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ドバイ・フレーム内の謎のリッチ空間


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小型大阪城

 ドバイ・フレームでの散策を終えた私は、ライドにその旨を伝えると、彼はとあるショッピングモールにいるとの事だったので、そこでライドと合流した。そのモールの大きめの広場のような場所では、何かアフリカ系の人々が太鼓のような楽器を演奏していた。また、そのモールが湾岸沿いにあったため、裏からは海が拝め、また鮮魚が並べられたローカルマーケットのようなエリアもあった。そんなひとときを過ごした後、私はカリドと合流する約束があったため、すぐさまライドと別れ、カリドが車で迎えに来てくれる場所まで向かった。私たちは、まず夕方のビーチに出向き、夕焼けを楽しみつつ、記念撮影をした。少しばかり黄昏た後、ディナーをとるために、とあるレストランに向かった。

 

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ショッピングモール裏の夕日


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黄昏のビーチ

 

カリドが私を連れていったそのレストランは、まさかのフィリピン料理レストラン(ビュッフェスタイル)。フィリピン料理と聞くと、孵化しかけの雛が入ったヤバめの卵料理(バロット)を想像していた私は、ビビり倒していた。しかしながら意外にも、甘辛く煮た甲殻類やチキン、タイ米の炒飯など、想像していたよりもよほどマトモなものであり、美味しかったのだが、想像していたものとのギャップから、特に記憶に残るものではなかったという印象を抱いた。いずれにせよ、カリドが奢ってくれたので、私は大満足である(乞食乙)。

 

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フィリピン料理ビュッフェ

 

食事を終えると、カリドは私を大きめのショッピングモール(何個あんねん)に連れていき、高級なものを色々と物色し始めたのだが、私は内心焦っていた。というのも、この日はUEFAチャンピオンズリーグの決勝の日。しかも、私がイングランドで最も愛するクラブ、チェルシーが決勝に進出していたのである。しかし、お世話になりまくっていたので、時間が迫っていたとしても急かすことは出来ず、私は彼の買い物にただただ呆然としながら付きまとっていた。お金は人を黙らせてしまう。私は、札束でビンタを食らったような気分だった(意味わからん)。そして買い物を終えた彼は、私をライドのところまで車で送ってくれたのだが、道中で既に試合が始まっていたこともあり、スマホで1人で観戦していた。ライドの家に到着すると、カリドに深い礼を申し上げ、私はライドの部屋に向かった。カリドはその後、平和だった頃のウクライナへと旅に出たようである。部屋に着くと、試合の残りをライドと共に観戦した。まさかのチェルシー優勝だったので、私は夜中にもかかわらず、1人でひたすらハイテンションになっていた。

 

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当時の様子

 

そして私は試合後、冷めやらぬ興奮を強制冷却し、床に就く前にひとつの重要なことをした。ドバイのランドマーク、ブルジュ・ハリファに登るため、翌日の夕方の予約を取ったのである。翌日、私を待っていた衝撃の光景とは.....

 

次回、世界一の高層ビル

                                                     to be continued......

 

 

 

 

 

第9話 平和 ~ドバイのホスピタリティ~

 ホステルでの支払いを終えた私は、正直少しだけ不安であった。というのも、バックパッカー経験が無かったことから、旅行で宿泊=ホテルであったので、ホステルという何人もの人との共同部屋がストレスになると感じていたのである。そのホステルの経営をしているのは、アフリカ出身の女性。「アフリカ出身」という大きすぎる括りは嫌いなのだが、どの国出身か分からない。そのホステルは高層マンションの一室にあるので、とても小さいのだが、世界各地より多くの宿泊者が居た。1つの男女混合部屋と1つの女性専用部屋、キッチン、トイレ&風呂、1つの大部屋件ロビー、そしてバルコニーという造りのこのホステル。私は1つとんでもないミスを犯した。(本当に)知らずに女性専用部屋を予約してしまっていたのだ。しかし幸いなことに、オーナーの女性が女性部屋での宿泊を許可してくださった。そして私は大部屋で様々な人々と会話をすることになった。まずはバルコニーにてイギリス人の陽気なオヤジ(名前不詳)とロシア人の元警官(アレックス)、インド人の起業家ノマド(アース)、パレスチナ人の謎の男(名前不詳)の4人と会話を交わした。アレックスは腕相撲が強すぎて、ホステルのみんなが挑むも、全員敗北した。私はというと、戦わないというウルトラCを使用し、唯一ホステルで黒星を避けた英雄なのである(ザコ)。キングダムでいうところの王翦的立ち回りは人生で大事な戦略のひとつだ(20歳のガキは黙れ)。

 

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筆者のイメージ図

 

アースは昔のトレンディ俳優のようなバスローブを常に巻いていた。彼との会話を進めるにつれ、このホステルには日本人の女性が泊まっていることを知らされた。しばらく会話を楽しんでいると、その日本人女性は現れた。40代のその女性は、現在ドバイで働いているという。英語はそこまで堪能ではないものの、非常に楽しく過ごしているようだった。バルコニーでの会話を続けていると、ウクライナ人の若い女性も参加してきた。彼女はアーティストだそうで、私は気の強めな彼女にかなりいじられた(美人にいじられまくるのもまた良い)。そうして夜が更け、私は床に着いたのだが、ここで気づき始めていたのだ。ホステルとは、私が恐れていたような場所ではなく、非常に楽しく、簡単に国際的な関係性を深められる場所だということに。

 

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ホステルから見た景色(対岸にはドバイ・アイが)

 

 次の日は昼までホステルでダラダラと他の宿泊者と歓談を楽しんでいたのだが、夕方からはカウチサーフィンより2つの通知が。1つ目は、次の日から泊めてくれる人を見つけられたという通知(この人との物語は次回投稿予定)。もうひとつの通知は、ハングアウトのお誘いであった。この時ハングアウトした男性から、以降のバックパッカー経験を通して強く感じることとなる、ドバイ、さらには中東特有の限りないホスピタリティというものを感じ取ることとなった。彼の名前はカリド。彼は私を宿泊している場所の近くまで車で迎えに来てくれたのだが、初めて彼を見た時、私は非常に興味深く思えた。というのも、彼はいわゆる中東諸国の民族衣装のイメージ通りの服装だったのである(正式名称はトーブ)。

 

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彼の服装(拾い画)

 

私はローカルカルチャーに強く興味を持っていたため、車に乗り込むと、すぐに様々なことについての質問を彼に投げかけた。彼が私に教えてくれたことの一つの例としては、ドバイでは昼間には灼熱の気温のせいでほとんど人々は出歩かず、夜になると様々な所に出かけるため、ナイトライフのカルチャーが発達しているということ。他にも、イスラム教の影響で、基本的にはお酒は公共の場で飲めないが、外国人用の高級ホテルやバーなどではお酒が提供されていることなどを知らされた。そんなことを話しながら、まず彼は私をジュース屋に連れて行ってくれた。イチゴ狂人の私は、彼にいちごスムージーをご馳走になった。すると、ディナーの時間が近かったこともあり、彼は私を中東料理レストランに連れていってくれた。その時、私は何故かスマホを車内に忘れたせいで写真は撮ることが出来なかったが、簡単に言うならば、それは様々な種類のケバブ(シシケバブ)を薄いナンで巻くというシンプルなものだった。シンプルながらもその味は洗練されており、私が肉料理信者ということもあり、非常に私の好みのものであった。彼はまたも乞食な私に奢ってくれただけでなく、そのまま食後のジュースまで奢ってくれた。彼ほど乞食しがいがある人間は中東以外ではそうそうお目にかかれない(黙れ)。そして彼は、とあるショッピングモールに向かった。彼は宝石店に向かうと、ダイヤモンドの指輪について、商人とアラビア語で交渉していた。これほどドバイを感じた瞬間は無かった。そしてダイヤモンドの指輪を購入し、その足で別のフロアの高級チョコレートショップへ向かった。彼はその行きつけの高級チョコレートショップで当然のごとくチョコレートを購入したのだが、この時、思いがけないことが起きた。彼が私を店員さんに紹介すると、私が日本人だと聞いた店員さんが、日本が好きだということで、歓迎の印として巨大チョコレートケーキをくれたのである。思いがけずにお土産を手に入れた私は、ただひたすら感謝の言葉を述べ、その場を去った。彼はそのまま私をホステルまで送ってくれて、後日また会う約束をして彼は去った。そしてホステルに帰った私は、そのケーキを1人では食べられないことを確信していたため、皆を大部屋に呼んでケーキを分けることにした。もちろんタダで貰ったものとは言わずに、自分が買ってきた設定でだ(半分成り行きでそうなった感じもあるのだが)。強欲かつ厚かましい乞食である。ホステルの皆を呼ぶと、意外とまだまだ知らない宿泊者もいたのだが、いずれにせよ皆が私に感謝を述べ、世界中の人々と一緒にひとつのケーキを食べたのである。あれほど世界平和を感じた瞬間はない。そしてこのケーキが、後に私をフランスのパリにて助けることになるのだが、それはまだ先の話。そんなこんながありつつ、ケーキを完食した私は床についた。

 

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みんなで食べた高級チョコレートケーキ(タダ)

 

 次の日の朝、私は名残惜しくもチェックアウトをしようと大部屋に行った。すると、ここにはフィリピン人の女性、例の日本人女性、アース、そしてメキシコ人の男性がいた。そのメキシコ人男性の彼はサフォという名前であり、アーティストをしている非常に面白い人間である。というのも、彼は様々な楽器やパフォーマンスなど本当に多種多様な芸術を嗜んでいるのである。彼は前日にケーキをシェアした気に入ってくれ、私の餞別のために、ウクレレ演奏をしてくれた。また、彼は様々なものを顎や頭に乗せるというパフォーマンスを見せてくれた。

 

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サフォのパフォーマンス

 

 そして彼はパリに住んでいることを私に告げ、パリでの再会を約束し、連絡先を交換した。私は初めてのホステル体験を、皆に見送られながら、最高の形で終えることが出来たのである。新たなホストの元へ向かった私を待っていたものとは.......

 

次回、どデカい額縁

                                                      to be continued......